『靴下に穴が』
- 2009/11/14(土) 13:12:53
(エッセイ)
電車に乗った。
平日の午前中の中途半端な時間帯。朝の通勤通学ラッシュはとうに終わっていて、乗客はまばらだった。
私はシートに座って、窓の外をぼんやりと見ていた。空はよく晴れていて、暑くも寒くもない。穏やかで気持ちのいい日だった。平和な感じ。その時、何を考えていたかは忘れてしまったが、おそらく何か能天気なことだったろうと思う。一人で乗ったので話し相手はいないけれど、別に不満でも何でもない。目的地につくまで、ただ黙って静かに揺られていくだけだ。
大きな駅に電車が到着した。私以外の乗客が全員降りていく。ほとんどの人たちは、この駅で鈍行から快速に乗り換えるのだ。私だけが降りずに残った。やがてドアが閉まって、列車が走りだす。車内は束の間の貸し切り状態になる。こういうのも密室といえば密室になるのだろうか――。
次の駅で男性が一人だけ乗ってきた。20代の前半くらい。カジュアルな服装をしていて、ごく普通のお兄さんという感じだった。二人きりの車内で、そのお兄さんが私の斜め正面に座ると、ドアが閉まって列車が動き出した。
なぜだかお兄さんがジロジロと私を見ているような気がしたけれど、そんなふうに思うのは自意識過剰ってものだ。いつだって私が思うほど皆は私を気にしていない。私はあさっての方を向いて、何となく感じるお兄さんの視線は、気のせいということにしておいた。
ふいにお兄さんがすっと立ちあがると、私のすぐ右隣に移動してきて腰を下ろした。ぴったり体が触れそうなほどに近い。至近距離で目が合う。
あれっ、と思った。何だろう。ひょっとして知り合いだったかな。
お兄さんの顔をマジマジと見た。イケメンでもブサイクでもない。失礼だが特徴の少ない顔だと思った。どう考えても知らない顔なのだけど――。宗教か何かの勧誘だろうか、それともナンパか、最悪ならチカンという可能性もありだ。やがてお兄さんは意外なことを口にした。
「靴下に穴が開いていますよ」
――――はい?
日本語の意味はわかるが、唐突にそう言われた意味がわからない。
「靴下に穴が開いていますよ」
「え? 開いていませんけど」
「開いていますよ」
「開いていません」
「絶対に開いてますよ」
「開いてませんから」
よくわからないままに、押し問答になった。このお兄さん、何を言っているんだろう。私は穴の開いた靴下なんて履かない。それに第一、お兄さんに私の靴下が見えるわけはないのだ。私の足元はショートブーツで覆われていて、穿いているジーンズもちゃんと足首の下あたりまであるのだから。
お兄さんは冗談を言っているようには見えなかった。真面目に親切心から教えてくれている様子だ。ますます意味がわからない。
お兄さんが黙ったので、私も黙った。少し困ったような顔で見られて、私だって困った顔をするしかなかった。
ズレた会話がまた始まる。
「靴下に穴が開いていますよ」
「開いていません」
もしかして私がおかしいのか? お兄さんは何か根拠があって、そう言っているのだろうか?
「穴が開いていますよ」
「開いていません」
「絶対に開いていますよ」
「開いていませんから」
同じような語彙で繰り返す会話。徐々に不安が広がっていく。
わからないながらも私は半ば意固地になっていった。絶対に靴を脱いで確かめたりはしたくない。絶対に。
電車は次の駅に到着し、でも誰も乗ってこなくて、また出発した。
「困ったなぁ。本当に穴が開いているから教えてあげているんだけど」
私の靴下がどうしようが、通りすがりのお兄さんにはまったく関係のない話だというのに。
「左足のつま先のところ。靴を脱いで確かめてみて」
左足のつま先……。お兄さんが具体的な場所を言ってきたのでギョッとした。何でブーツの中が見えるんだ。透視能力でもあるのか? って、まさかね。
瞬時に自宅を出てからの自分の行動を振り返ってみる。一度もブーツを脱いでいない。これは確実だ。つまり私のつま先がどうかなんて、お兄さんにわかるわけがないのだ。そう考えたらホッとした。
「靴を脱いでくれないかなぁ」
「イヤです」
「ちょっと脱いでくれるだけでいいんだけど」
「絶対にイヤです」
次の駅に着いた。私はさっさと降りて、改札へ向かう階段をめざし、階段を降り始める前に振り返った。電車はその駅止まりだったので、お兄さんもホームに出てきたが、追いかけてはこない様子だった。
さて、この話はこれでおしまい。駅員さんの前を通りすぎるとき、事情を話した方がいいのかちょっとだけ迷ったけれど、やめておいた。
それから、私は目的地に向かい、その道すがら何度も何度も振り返っては、お兄さんが後からついてこないか確認してしまった。もしついてくるようだったら、不気味すぎる。
私がブーツを脱いで靴下に穴があるかどうかを確かめたのは、女子トイレに入り、個室の中の便座にすわってからだ。――靴下にも靴にも、穴なんてどこにもなかった。ほっと息を吐いて、さらに丁寧に再確認したけど、どう見たってどこにも穴はなし。良かった、良かった。
それにしても、あのお兄さんにちゃんとした意図はあったんだろうか? ただのウソツキ? 変わったナンパ……簡単に靴を脱ぐ女は洋服もすぐに脱ぐだろうみたいな、そんな話は聞いたことないけど三流雑誌になら書いてあるかもしれない。あとは、もしかして靴下か靴のフェチだったりして? キャメロン・ディアスの映画でそんなのがあった。
少し悔やまれるのは、あのお兄さんの前で靴を脱いでいたら、どんな反応が返ってきたのだろうかということ。もしかして私はおもしろい展開を逃したのかもしれない。
「靴下に穴が開いていますよ」
「開いていませんよ、ほら、見て!」
「あ、ほんとだ。開いてない」
やっぱり逃してないか。
もしこの話を短編かショートショートにまとめるとしたらどうだろうか? ちょっと書いてみよう。
あるところに、暇を持て余した若者が二人いました。
「なんか、おもしれぇことねぇかなあ」
「なあ、こんなのはどう?」
彼は通りすがりの女性に目を止めます。
「もしオレがあの人の靴を脱がせることができたら、今日の晩飯はお前のおごり」
「あ? なんだ、それ?」
「イソップ物語の“北風と太陽”だよ。旅人のマントを、どちらが先に脱がせることができるかって、北風と太陽が競うんだ」
「マントも上着も着ていないから、靴ってわけか? バカなこと言うなよ。やめとけ。見ず知らずの女の靴を、無理矢理ぬがせたりしたら変質者だろ」
「無理矢理なんて言ってないよ。オレに考えがある。ま、見てろって」
自信たっぷりにそう言うと、若者は女に近づいていきました――。
(中略)
残念そうな顔で若者が戻ってきました。
「ちぇっ、ダメだったぜ」
「結構、長く話してたじゃないか」
「あぁ、靴下に穴が開いてるよって言って、靴を脱がせようとしたんだけど無理だった」
「お前なぁ。変なやつだと思われたんじゃねぇの?」
「別にかまうかよ。どうせあの人とはもう二度と会うこともねぇだろうし」
「ま、それもそうか。……ってか、今、何時だ?」
「やべぇ。急がないとバイトの面接に遅れちまう。珍しいほど良い条件のとこだもんな。オレ、絶対に面接に受かりたい」
二人はまだ知りませんでした。先程、声をかけた女性が実はこれから向かうバイト先の店長だということを――。
そんなこんなで、私の妄想は続いていく。
お付き合いいただき、ありがとうございました。




